History

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山手舞踏場 since1946

「クリフサイド」は古き良き横浜の雰囲気が残るストリート、元町代官坂を少し上った、トンネルの手前にある。かつて、ここから港が見えたという。
昭和21年8月、「山手舞踏場」としてスタートした。米兵相手のクラブばかりの当時、生バンドで日本人が踊れる高級ダンスホールとして名を馳せた。東京からもお客が詰めかけ、坂には行列ができたという。
創業者はスカーフの輸出業を営んでいた実業家の野坂政爾氏。終戦直後で物資のなかった当時、材木を買うために県知事に手紙を書いて建築許可を得た。その木造建築の建物は、今もそのままだ。広々したダンスフロアーとステージは吹き抜けの空間。2階はショー全体を見下ろせる回廊席となっている。
昭和27年の日活映画「上海帰りのリル」全編は、ここクリフサイドを舞台に撮影された。

Dancers_CliffSide

最盛期には200人の女性ダンサーがいた

作家や国会議員も常連だった。が、創業者の考えで、日付が変わる前には必ず閉店した。女性たちもダンスはもちろん、お茶やお花、英会話にマナーも仕込まれ、もっぱら“クリフサイド大学”と言われたそうだ。隣接する敷地に “白バラ寮”があり、そこに住んでいた女性もいた。元ダンサーは最近の取材にこたえ、語っている。
「食べるものもない時代、ここで働けたことで私の人生は輝いていきました。水商売なんて言わせない、とみんな誇りをもって働いていましたね」

一晩に4バンドも出演し、入れ替え制の入場を待つお客があふれていた。ジャズ界の草分け、南里文雄をはじめとしてたくさんのミュージシャンがここから育った。
クリフサイドは、自由に恋をささやける新時代の象徴だった。

入口で迎えてくれるのは黒いベストに白シャツのウエイター。1階ステージの反対側には客席を見渡せるバー、2階は回廊席になっているのも往時のままである。
いまも、クリフサイドに出演し、毎月の音楽イベントをプロデュースする泰地虔郎さんは、最盛期の頃からからここでサックスを吹いてきたジャズマンだ。 2代目社長の野坂欽也氏は語る。「父親の残したクリフサイドは、横浜のまちの財産です。兄たちの応援もあり、ここを残して、といってくれるみなさんがいる。社会に貢献してきた熟年の人たちに楽しんでもらいたいです」

(text: 小園弥生)

 

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