クリフサイドの青春

 

文=荻野アンナ

山の手の住人にとって、買物をするとは、坂を上がることである。
元町商店街を動脈とすれば、そこから、何本もの細い血管が、緑の丘にのびている。
そんな血管の一つが、代官坂である。傾斜はなだらかではあるが、両手のショッピングバッグが重りになる。心持ち背をこごめ、自然にうねりに足を沿わせているうち、次第に息がきれてくる。火照(ほて)った頬(ほほ)が風を感じる。
ブテックの名前の入った紙袋を、得意げに下げていることもある。が、たいていは老舗のスーパーや新参のコンビニの食料品でふくれたビニール袋が、指にくいこんでいる。
私にとっては、生活の足を運ぶ坂なのだが、そこに青春のひとときを、蛍火のように輝かせた人もいのだと、最近知った。
名古屋で乗ったタクシーの、初老の運転手は、客が横浜の人間と知るなり、無防備な笑顔を見せた.伊勢佐木町。港。マリンタワー。彼の口から「クリフサイド」の名前が出るに及んで、私のほうも膝(ひざ)を乗り出した。
代官坂の中腹を、右に入ったところに、お伽(とぎ)話の城を、上からひしゃげて、コンパクトにした感じの、一風変わった建物がそびえている。
長い歴史を誇る、ダンスホールである。戦後の一時期は東京まで名前がとどろいていたという。私にとっては、買物帰りに横目で眺めるだけの店に、その運転手さんは、若い頃よく通った、と目を細めた。
当時はいなせな船員だった。とっておきのダンスシューズに、髪はポマードで念入りに固め「クリフサイド」にくりだした。
踊っていて知り合った、とは、今でいうナンパになるが、相手はお嬢さん育ちである。彼女からくる手紙には、英語の単語がまじっている。彼はあわてて辞書を買い求め、独学にいそしんだ。
そのうち彼女に縁談が来て、それっきりになった。手も握ったことはない。だから歳月をへてもなつかしい。なつかしいな、横浜、とそのひとは甘いため息をついた。
以来、代官坂を通るたびに思い出す。昔、この坂を、胸をときめかして上がった人がある。他人の記憶で、少し胸を熱くして、足を止める。「クリフサイド」の白壁が、薄暮に鮮やかに、浮かび上がる。

(この文章は『市民グラフ ヨコハマ』 1996 No.95から抜粋致しました。)

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HISTORY

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山手舞踏場 since1946

「クリフサイド」は古き良き横浜の雰囲気が残るストリート、元町代官坂を少し上った、トンネルの手前にある。かつて、ここから港が見えたという。
昭和21年8月、「山手舞踏場」としてスタートした。米兵相手のクラブばかりの当時、生バンドで日本人が踊れる高級ダンスホールとして名を馳せた。東京からもお客が詰めかけ、坂には行列ができたという。
創業者はスカーフの輸出業を営んでいた実業家の野坂政爾氏。終戦直後で物資のなかった当時、材木を買うために県知事に手紙を書いて建築許可を得た。その木造建築の建物は、今もそのままだ。広々したダンスフロアーとステージは吹き抜けの空間。2階はショー全体を見下ろせる回廊席となっている。
昭和27年の日活映画「上海帰りのリル」全編は、ここクリフサイドを舞台に撮影された。

Dancers_CliffSide

最盛期には200人の女性ダンサーがいた

作家や国会議員も常連だった。が、創業者の考えで、日付が変わる前には必ず閉店した。女性たちもダンスはもちろん、お茶やお花、英会話にマナーも仕込まれ、もっぱら“クリフサイド大学”と言われたそうだ。隣接する敷地に “白バラ寮”があり、そこに住んでいた女性もいた。元ダンサーは最近の取材にこたえ、語っている。
「食べるものもない時代、ここで働けたことで私の人生は輝いていきました。水商売なんて言わせない、とみんな誇りをもって働いていましたね」

一晩に4バンドも出演し、入れ替え制の入場を待つお客があふれていた。ジャズ界の草分け、南里文雄をはじめとしてたくさんのミュージシャンがここから育った。
クリフサイドは、自由に恋をささやける新時代の象徴だった。

入口で迎えてくれるのは黒いベストに白シャツのウエイター。1階ステージの反対側には客席を見渡せるバー、2階は回廊席になっているのも往時のままである。
いまも、クリフサイドに出演し、毎月の音楽イベントをプロデュースする泰地虔郎さんは、最盛期の頃からからここでサックスを吹いてきたジャズマンだ。 2代目社長の野坂欽也氏は語る。「父親の残したクリフサイドは、横浜のまちの財産です。兄たちの応援もあり、ここを残して、といってくれるみなさんがいる。社会に貢献してきた熟年の人たちに楽しんでもらいたいです」

(text: 小園弥生)